奇特なブログ

「殊勝に値する行いや心掛け」を意味する、奇特な人になる為のブログです

性善説か性悪説か

まず、ここで言っている性善説性悪説は、本来の意味とは「違います」。
以下のリンク先に書かれている、誤った定義の方の意味として使っています。

性善説と性悪説のよくある誤解

では、先に結論。
筆者的には、
性善説性悪説もない。あるがままに、相手と向き合いましょう」
でしょうか。
では、この結論に至った理由を書いてみます。

性善説

悪に期待しても無理です。
なので、「現実解」を考えた方が良いと思います。
今回は具体的な事例を4つ取り上げます。
まずは以下のケース。

> 今の仕事に影響が出ない様に、忙しくならないようにするから、
> 今回だけなんとか手伝ってよ。

縁を切る準備を始めた方が良いかもしれません。
まあ、これまでの経緯や、この言葉の後の発言にもよると思うのですが。
まず、相手に以下の言葉を投げかけてみて下さい。
「人の手が足りなくて忙しいから、手伝ってって事なんですよね?
で、そんな状況で"どうやって"私を忙しくしない様にするのですか?
何か"秘策"でもあるのですか?」
まあ大抵は、どうやってって部分も秘策も何もないと思います、残念ながら。
で、そういった方には、
人月の神話に載ってる有名な法則を教えてあげて下さい。

「遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加はさらに遅らせるだけだ」

と。
感覚的には、
ソフトウェアプロジェクトの所は、「仕事」と置き換えても、
結構通用するのではないかと思っています。
しかし逆に、もしも秘策などがあって、
貴方がそれに同意出来るのであれば、
信じてみるのもアリかもしれません。
それでも、「過度の期待は禁物」だと思いますが。

では、次のケース。

性的暴行を確実に予防する工夫――効果は保証します!

「暴行された時の"護身術"は身に付けておく」となるでしょうか。
だって、これを書いたからといって「性犯罪が無くなる」ほど、
世の中は平和ではありませんよね?
ただ、こういった記事を書くこと自体は、大変に良いとは思うのですが。

では、次のケース。

裏を返さない恥晒し

> 「次回はちゃんとした値段で発注するから、今回は安くしてよ」
> 「次回はいい案件まわすから、今回はこの値段で」

2個上と似ていますね。
結論は、リンク先にも書かれていますが「値切るな」で問題ないと思います。
そもそも、次回があるという保証は何処かにあるのでしょうか?
「未来」の話ですよね?
貴方は予知能力者なのでしょうか?

では、次のケース。
性善説はこれで最後です。

> オブジェクト指向どころか、
> 構造化すらされていないプログラム(1関数で1000行とか)だが、
> 問題点を伝え続ければ、きっと分かってくれるはず。

高確率で分かって「くれない」と思います。
なので、「分かってくれない人々とは一緒に仕事をしないで済む様な行動を起こす」のが、
一番平和に収まると思います。
人間は、基本的には「変化を嫌がる動物」だと思います。
「今までのやり方で済ませたい」って思った事はありませんか?
で、こういった心理の時に出る言葉が、
「今まではこれで問題なかった。だからこのままで良い」
なのではないでしょうか。
で、その「相手の常識」を覆すのは、想像以上に大変だと思います。
正直、覆したのを筆者は見たことがありません。
なので、解決しようと取り組む事自体は全然良いとは思うのですが。
そこに労力をかけるよりも、もっと他の分野などに取り組んだ方が良いのではと思います。

もちろん、上記のいずれについても、問題を許して良いとは「思っていません」。
また、性善説でありたいという「気持ち」も、「分からなくはない」のですが。
「期待しても叶わないモノ」に執着するよりも、
「期待すれば叶いそうなモノ」に執着した方が良いのではないかと思うのですが。

性悪説

「本当の悪」を知っていますか?

「本当の悪」を知らないが故に、
「少しの悪」でも悪だと思ってしまうのではないでしょうか?
政治家の派閥みたく、
自分(達)と違う考えの人は、全て悪なのでしょうか?
まあ、人間は多かれ少なかれ「承認欲求」というモノを、内在的に持っていると思うので、
自分と考えが近くて、自分を承認してくれる人を贔屓にする部分があるとは思いますが。
でも、言うまでもない事ですが、自分と同じ人間など一人として居ません。
それが双子でも。
よって、個々には「多様性」が必ずあり、
その多様性を「どこまで」自分が受け入れられるかが、
自分の心の大きさなのだと思います。
また、自分と共通点が少ない相手で「あればあるほど」、
自分が知らない事を知っていたりする事が多く、
メリットが多いと思います。
ただし、だからといって「誰でも受け入れましょう」と言うつもりは1ミリたりとも有りません。
やっぱり、「自分にとって」合わない人というのはどうしても存在するので。
でも、性悪説を「前提」として、
「あの人は悪だ」と見てかかるのは、少々勿体無いと思うのですが。

結論

相手と「真正面から」向き合ってみましょう。

その結果として、「貴方にとって」悪だと思うならそれで良いでしょう。
自分の常識は他人の非常識なのですから、
「真正面から向き合ってみたが、どうしてもアイツの事が好きになれない」ってケースだってあるでしょうし。
でも、「自分の常識は他人の非常識」っていうのは、
善にもなるのですよ?
「アイツはイマイチ気に入らなかったが、でも以前に会ったアイツよりは全然良いヤツだな。
"これぐらいの非常識"なら、受け入れようか」といった感じで。
そういった気持ちなり考えなりで生活をしていけば、
比較的「穏当な」人生になるのではないかと思うのですが。

どうなんでしょうかね?